じたばた戦記

新卒入社で早くも挫折

不定期に更新されるじたばた戦記。傷だらけの転職人生を語ります。

第1回は新卒で入社した会社について。この会社からの転職が自分の転職人生を決定づけることになったのでした。

もう20年以上前のことになるので記憶もおぼろげになっているのですが、なんとか思い出しながら書いてみます。

プラス3歳で大学を卒業

思えば、大学入学のときから私はじたばたしていました。ど田舎の生まれで、しかも親が借金を背負って自己破産をしたものですから、親戚からは「大学に行かずに働くんでしょ?」などと言われていました。

がしかし。私の取り柄は勉強しかありませんでした。高身長でずんぐりした体型、そして顔もかわいくなく、性格も愛嬌やかわいげという言葉などからはほど遠く、細やかな気配りなどもできず。さらに、運動神経もなく、信じられないくらい不器用で、女子が高収入を得られるような仕事にはどうして就けそうにありません。金持ちのところに嫁に行くというのもツテなどなく(あったとしても先方からお断りされていたでしょうが)、無理でした。

ただ、子どもの頃から本を読むのが大好きで、本や漫画ばかり読んでいたせいか、勉強だけはできました。なので自分の取り柄を活かすべく、東大を目指しました。

東大は現役時代と浪人時代(地元の予備校に学費免除で通っていました)の2回受けたのですが、合格できず。すべり止めで受けた地元の大学に通いながら仮面浪人をして結局別の国立大学に進学しました。

当時は女子が多浪・仮面浪人までして大学に行くというのは相当珍しいケースだったと思います。さらに大学在学中に1年休学して留学したので(私費は無理だったため公費での留学です)、大学卒業時点ですでに同級生より3歳年上の状態でした。

入社したのは映像制作会社

当時はバブル末期で就職は難しくなかったはずなのですが、はみ出している自分は就職活動では大手企業には入れませんでした。結局入社したのは小さい映像制作会社です。

本や漫画だけではなく、映画も好きで「ロードショー」などの雑誌を隅から隅まで読んでいたので、映像制作に憧れがあったんですね。今だとスマホでショート動画撮影してみるとか、撮影した動画をPCで編集するとか、たとえ田舎住みであったとしても、個人で映画を作る方法はいくらでもあると思いますが、当時はスマホどころかPCすら普及していない時代(ワープロがやっと普及し始めたくらいでした)、個人で映画を作るなんて考えられませんでした。

なので、本当に憧れだけで具体的な知識もなく、映像制作の工程も知らず、やみくもに入社した感じです。そして入社後に悟りました、自分は映像制作に向いていないということを。いや正確には、アシスタントディレクター(AD)に本当に向いていませんでした。なぜならADは撮影現場の雑用係で、先を読んで素早く動いたり、状況の変化に臨機応変に対応したりする、気配りや気働きが必要だからです。まったく気が利かない自分は、その会社では完全なボンクラ扱い。映画がどれだけ好きで語れても、現場では何の役にも立ちませんでした。

たとえば、お弁当の手配はADの仕事ということで、言われた通りに人数分のお弁当を手配したところ、こっぴどく叱られたことがあります(「言われなくてもお茶も手配すべき」だそうです)。今だと「お茶も必要ですよね?一緒に頼んでおきますね」などと自分から言えるのですが、当時はそういう確認を取ることすらできませんでした(冷静に考えると、新卒で初めて弁当を手配するADに何も指示せず、これまでのやり方などについても説明せず、いきなり「言われなくてもお茶も手配すべき」とか言うディレクターもちょっとどうかと思いますけどね)。

今は違うかもしれないのですが、当時は新卒で映像制作会社に入社した場合、ADの経験が必須で、それを乗り越えないと映像制作ディレクターになることができない仕組みでした。ADをしながらも先輩からディレクター的な仕事を回してもらえることもあったのですが、ことごとくその親心を裏切っていたと思います。私は結局2年と少しでその会社を辞めることになりました。

挫折

当時はよく「最低3年は同じ会社でがんばれ」、「短期間で転職すると辞めグセがつく」などと言われていたため、「初めての会社で成果が出せなかった」、「3年同じ会社でがんばれなかった」というのは自分としても相当ショックで、その後長い間コンプレックスとして引きずることになります。「第二新卒」という言葉はその頃すでに使われ始めてはいましたが、今ほどポピュラーではありませんでしたし。

自分は仕事ができない人間なのではないか」、「こんな自分を拾ってくれる会社なんて存在しないのではないか」など、ぐるぐる悩んだりもしました。周囲には自分と同じような人間もいなかったので本当に孤独でした。

次の会社には長く勤めたいと考えました。映像制作ではなく、もう少し自分ができる仕事を探して、今度はソフトウェア企業の翻訳部門に入ります。しかしこの会社も実は長続きしませんでした。第2回へ続く。

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